日本百名城 岩国城と錦帯橋

あけおめです。

ことよろです。

新年の挨拶も程々に。(*^^*)



冬休み中国地方、城巡りネタです♪

12月30日朝。

日本百名城67個目に来たのは山口県の岩国城!!

ガイドブックには岩国駅よりバス。

と書いてありましたが川西駅から1キロちょっとで歩けます♪

名勝 錦帯橋 見えてきました♪ 山上に岩国城♪
DSC_1084 (1)
白蛇でも有名。

岩国城天守って実際の位置より50M前に建てられています。

理由は??

錦帯橋と一緒に写真写るから♪

最初、この話を聞いたとき

  『えぇ~!!』

となりましたが 景観を見て

 『結果オーライ♪』

と感じた単純な自分。

さらに橋に接近
錦帯橋!!
『おお~』  って感じです。

橋から見た岩国城
錦帯橋から見た岩国城

橋を作らせたのは当主 吉川広嘉公
吉川広嘉公像
1673年のお話だそうです。

初代城主は吉川広家公
(歌手の吉川浩司の御先祖)
吉川広家 信長の野望
信長の野望より

って事で ココからちょっと吉川広家公のお話。

毛利家の3本の矢、吉川元春の子の広家、
武勇に優れ、子のなかった秀吉から羨ましがられたりしました。

母は猛将、熊谷信直(源平の合戦で有名な信実の末裔)の娘。

しかし、母は日本史上、記録に残る、おブスちゃん。

猛将熊谷信直を一族にしたい吉川元春公は
歴史上に残る、おブスちゃんを正妻に。
側室は迎えず、おしどり夫婦だったそうです。

そして息子の広家も勇猛にて、元春は熊谷信直、
広家の力を借りて、戦にて無敗だったそうです。





秀吉の天下統一後、広家もかわいい娘を側室(人質)
として秀吉に差し出します。

しかし石田三成より
『女なら誰でもいい という訳ではない!』

と、なんと手つかずで送り返されます。
(この件で三成と広家は不仲になります。)


そんな広家の有名なお話は1600年の関ヶ原の合戦。

毛利輝元は西軍方の総大将として大阪城に着陣。

関ヶ原には穂井田元清の子で輝元の養子になった
毛利秀元を大将に、先陣が広家。

しかし広家は西軍の勝利を危ぶみ、
毛利家の所領安堵を条件に徳川方と内通。

関ヶ原では表向き西軍でホントは東軍。

毛利秀元はそれを知らずに東軍を攻めようとしますが
前に広家がいて攻められず、催促すれば広家は

        『弁当の最中』

と毛利軍を出陣させませんでした。

その時の動画がコレ
2分40秒から広家公登場!の動画





話をもどし、ロープウェイで城に向かいます。

振り返ると岩国城下が見えます。
岩国城ロープウェイ眺望


そしてテクテク天守に向かいます。
岩国城へ

石垣
岩国城石垣


岩国城天守閣
岩国城天主

眺望
岩国城眺望
瀬戸内海も見えます。

そんな岩国城ですが 後に発布された

一国一城令

によってわずか7年で取り壊されたのでした。



読んで頂き有難うございました。









幕末 萩

萩です。

萩と言えば幕末の街。

戦国と幕末がコラボした贅沢な街。

食べ物で言えば、焼肉と寿司が一つのお皿に盛られている状態♪

城下町も有名だし、幕末の志士も説明いらないと
思うので、文章少なめに写真を添付していきます。
(ホントは歴史巡り強行軍にて少しバテぎみ…。)


萩城から東萩駅に向かって歩くと城下町の中を通ります。
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田中儀一大将像
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高杉晋作邸
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高杉晋作像
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城下町を抜け、公園内を歩きます。

久坂玄瑞像
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山縣有朋像
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るろうに剣心 で出てきたよね♪

公園を抜け図書館を抜けると!

萩明倫館
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道場の友備館
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説明 クリックでアップになります。
meirinnkannbudoujyousetumei.jpg

有備館内の大筒
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坂本竜馬も萩に滞在した時はココで
萩の若い藩士に剣を披露したとか。
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萩といえば忘れちゃいけない松下村塾。


松下村塾に向かって歩きます♪


途中で入江九一宅 発見♪
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説明読む方はクリックして下さい。
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入江邸はす向かいは、なんと周布邸です。
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さらに歩きます。

萩城から20分以上歩いたでしょうか?

やっと松下村塾です。
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中です。
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ここから東萩駅まで10分くらいかな?

先日宿泊した山口のネットカフェ 快活クラブさんにもどって泊まるのでした。
(9時間宿泊1800円、シャワー300円でジュース、ソフトクリーム、味噌汁 食べ放題♪
 バンダイチャンネルのダーティーペアを朝まで見ました♪)

ここで初日 終了!

初日の歩数3万歩以上、22キロ歩いたのでした。 


読んで頂き有難うございました。


日本百名城 萩城

萩駅です。
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ここから日本百名城66個目の萩城に向かいます。

駅を間違えたので結構歩きました。

ここまで20分。
mituyanokunn.jpg
有名な毛利三兄弟のサンフレッチェこと三矢の訓

説明はクリックでアップ
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毛利元就の息子って三人だけなの?

と思いますが4人目もいます。

名前は穂井田元清。
(やっぱり他家へ養子に出されてる…。)
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信長の野望の元清さん

有能でしたが妾腹の子で元就に
『虫けらのようなヤツだから、どうなってもかまわない。』

と言われたんだとか。

父に虫けら扱いされた元清は兄、隆景を慕い、
『景殿』
と兄をよく助けました。

これも元就なりの兄弟仲良く作戦だったのでは?

と感じます。

もし元清さんが本妻の子だったら…。

今頃 広島のサッカーチームの名は『ヨンフレッチェ』だったでしょう。
       ※イタリア語で矢はレッチェらしい。







城下町を抜けると元就の孫、輝元公墓所。
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20円お金を出して入ります。

輝元公夫婦の墓所
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右が輝元公

さらに歩いてここまで40分。

やっと萩城。

ここで輝元公像
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萩城
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天守台
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当時はこんな感じ
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天守台からの眺望
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以上 読んでいただき有難うございました。


日本百名城 津和野城

日本百名城65個目。

今回は歴史的説明も特に入れずに
体験記のみで書いてみますネ。

山口県は萩・津和野で有名な津和野です。
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山口を電車の旅する時は時刻表を確認しないと大変な事になります。
(山口で1時間半待ちました。)

津和野駅にはタクシーもいなかったのでレンタサイクルです。
(2時間500円)

駅から自転車で走ること5分。

城跡が見えてきました。
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あそこまで登るのか…。


津和野ヒルクライム!!
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5分で足を付く…。
(乗鞍、八ヶ岳を自転車で登った事ある自分ですが、今では無理!!)

途中から徒歩。

石碑発見
tuwanojyouato sekihi


本来ならリフト動いてるらしいのですが平日は休み。
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こんな道登ります。
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約20分で出丸に到着。
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でも工事中なのか侵入禁止。

当時はこんなんだったようです。
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本丸に向かいます。

おおっ! 野面積みの石垣があ♪
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手作業で石をここまで運ぶって大変だったでしょうね。


天守台
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当時はこんなんだったとか
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天守跡
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もうひとつ太鼓丸と呼ばれる場所があります
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城下を一望


櫓跡だと思いますが こっちのほうが
眺望がいいです。
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下城したのちに向かった場所。
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森鴎外屋敷



読んでいただき有難うございました。

続日本百名城 大内氏館

ども。

山口県山口市にいます。

山口市には続日本百名城の大内氏館があるので行ってきました。
        (続百名城19個目)


今回はウンチク交えながら大内館を紹介です。



16世紀前半の戦国時代、中国地方に覇を唱えた大内氏(大内義隆)の居館です。
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12月29日 朝6時半…。  暗い…。

説明看板
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クリックでアップになります。


コーヒー飲みながら待つこと30分…。

土塀と空堀程度を備えた居館跡。
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現在は龍福寺
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明るくなってきたあ~♪


大内義隆といえば、武闘派というよりは文治派で、
幼少期に女性に囲まれて育ったためか男色傾向が強く、
その男色相手の謀反により殺されるといった人物。
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境内内の義隆像


大内義隆(信長の野望より)
大内義隆 信長の野望
1507年、周防・長門・石見・豊前4か国の太守の嫡子として大内氏館で生まれる。

1524年、安芸国に出陣。安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。
しかし尼子方として救援に来た毛利元就に敗退。

1528年に22歳で家督を相続。

境内内の地泉
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地泉の説明
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クリックすればアップになります。




1530年から九州に出兵、北九州沿岸を平定、
しかし少弐攻めで、龍造寺家兼の反攻にあって大敗(田手畷の戦い)。

1536年北九州地方の平定をほぼ完成。

1537年、将軍義晴から幕政に加わるよう要請で上洛を試みるが、
尼子氏に阻まれ断念。



西門
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1540年尼子晴久安芸国へ侵攻、毛利氏の居城吉田郡山城に
陶晴賢を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破。
以後は尼子氏に対して攻勢、
1541年には安芸国を勢力下に。

1542年義隆自ら出雲国に遠征し尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、
晴久に大敗(月山富田城の戦い)。

この敗戦で子の晴持を失ったことを契機に
領土的野心や政治的関心を失う。

1550年8月、フランシスコ・ザビエルを引見、汚れた旅装のままで面会、
ろくな進物もない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難、
義隆立腹。


ここで毛利親子やザビエルと会いました。
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1551年、ザビエルを再び引見する。今回は美麗な服装で飾り、
珍しい文物を義隆に献上。献上品には望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し
・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃など。義隆喜ぶ。

ザビエルに布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。


1551年、険悪な関係になった武断派の陶隆房(晴賢)が謀反、
大内義隆を討つ。(大寧寺の変)

陶晴賢(信長の野望より)
陶晴賢 信長の野望
義隆家臣でイケメンの自信家。
名将と言われ、槍働きも尻働きもどちらもこなす。

義隆は晴賢に会いたくて馬で5時間
の道のりを通ったとか。

その時は陶さん、タヌキ寝入りしての焦らし戦術をとったとか。

そんな二人のボーイズ・ラブの終焉は謀反という最悪の結末に!


大寧寺の変動画


以上 当時は西の京と言われた山口の大内館でした。



読んでいただき有難うございました。
プロフィール

サムライダー

Author:サムライダー
性別 :男子   (雑食系)
身長 :165cm(調子の良い時)
体重 :62キロ (飲んでない時)
血液型:+O   (Aに憧れる)
目標 :優勝  (棚ボタでも)
好きなもの:歴史・自転車・
      トレーニング・ミリタリー関連

元自衛官
元実業団野球トレーナー
元整形勤務

実力以上にウンチク話し、
マニアックで自虐ネタ
も多いですが暖かく
見守って下さい。



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